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ブログ引っ越しのお知らせ


新たなサイトを作成しました。現在記事を少しづつ移行して、整えています。


今後の田島氏からいただいた原稿の投稿は、以下の「田島信威氏のブログ」のページへ反映させていきますので、引き続き今後もどうぞよろしくお願い致します。




また、私自身は、看護師として少子高齢社会での役割を考え、起業していく決意を持ち、ただいま起業準備中です。それに伴い、ホームページを以下に作り整えています。



どうぞよろしくお願い致します。


管理人:さびねこhttps://www.facebook.com/hiromi15515 (自己紹介です)

    

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苦難を通して歓喜へ [田島氏の随筆集]

 ベートーヴェンは、人生の半ばにいて、耳が聞こえなくなってしまった。音楽家にとって耳が聞こえないことほど大変なことはない。彼は自殺を決意して、遺書を書いた(ハイリゲンシュタットの遺書)。しかし、彼は死なないで、死よりもつらい苦難を通して生きる道を選んだ。そして最大の名曲、第九交響曲をはじめ多くの名曲を完成した。

 「苦難を通して歓喜へ」というシラーの言葉に支えられて、今に残る名曲ができあがった。この曲のおかげで、どれだけ多くの人が勇気づけられ、生きてこられたことか、計り知れない。

 私は年末恒例のこの曲の演奏を聴くと震えあがるような感動をいつも覚える。

 ベートーヴェンが苦難の中にあっても、生を選び、以降の作曲活動を闘ってくれたからこそ、人類は生きる喜びを与えられたのだ。私はその偉大な苦闘を思い、感謝の念を抱くものである。ベートーヴェンは「人間とはそういうものだ。苦難に負けず、闘って勝て」と言っているように思われる。


29.5.10

田島信威

フロイデ!フロイデ!(がん患者の第九合唱への参加) [田島氏の随筆集]

 4月25日(火)の昼頃、何気なくテレビを見ていたら、このたびの第九演奏会にがん患者のボランティアが参加して一緒に歌うという話を放送していた。特に2人の50代の女性にスポットをあてて、その闘病生活と練習風景を取りまとめていた。

 乳がんを発症して、10数年闘病生活を送りながら、この1年「合唱」の演奏の練習をしてきたと語る女性の姿は笑顔にあふれていた。友達もできたし、音楽の感動も味わったと語る姿は、病と闘いながら人生をどう生きるかを伝えていた。 

 死と直面しながらも、芸術活動に邁進する姿は、崇高な尊厳さに満ちていた。人生に真剣に取り組んでいる姿がひしひしと伝わってきた。日々死と直面しながら、なお、歓喜の歌を精一杯歌っている姿に、ただただ感動しながら、私は涙を流し続けた。

 見終わって考えた。

 私の生き方はこれでいいのか。

 日々老い衰えてゆく自分の情けなさを嘆くだけで、この2人のように死に直面しつつも、渾身の力を合唱活動に集中している姿をみると、戦慄するような感慨を覚えた。


 お前は今のままでいいのか!

 このように厳しい状況下で全力投球している人がいるのに、なんと甘ったれた、なんと情けない生き方をしているのか!

 田島信威よ、目を覚ませ!お前も全力投球に生きろ!

何ができるかではなく、何をしようとしたかをもう一度根源から問い詰めて、人生を考えなおせ!


 些細な事だが、私も歌の道に精進している。私の歌を楽しみにしている人たちに精一杯の努力をして、いい歌を届けよう、そう決意した。


田島信威

 29.4.26

歌の心 [田島氏の随筆集]

 歌は、歌詞とメロディーの2つの要素から構成されている。アマチュアにとっては、その2つだけでいいのかもしれないが、プロの場合にはもう一つ加えて「歌の心」を伝えるという事に意を注いでいるという。

 「歌の心」とはどういうことか?アマとプロの線が引かれるのは、「歌の心」が伝わるかどうかにあるといわれる。「恋の喜び」「失恋の悲しみ」「生命のはじけるようないろいろな思い」「亡き人を心から偲ぶ鎮魂の心」など、歌にはその歌の命ともいうべき「歌の心」があって、それを表現するのが、プロの仕事だという。

 たしかにそうだろう。声が良いからと言って、大声で詩とメロディーを怒鳴っても「歌の心」は伝わらない。少々難しいことだが、そのような「歌の心」を表現するのがプロの歌手だという。

 確かにテレビを見ていても、プロの歌手の歌からは「歌の心」が伝わってくる。「失恋の歌」「亡き人を偲ぶ歌」には、それぞれの思いがたっぷり盛り込まれている。さすがにうまいなぁと思う事が多い。

 私は、アマチュアの歌い手として、歌詞をメロディにのせて歌えばいいと思って、「歌の心」の表現という事を忘れていた。

 これからは、プ小野歌手の歌を注意深く聞いて、「歌の心」を聞き取っていこうと思う。また、自分が歌う時には、難しい事だが、「歌の心」が伝わるように、努力していきたいと思う。


29.3.21

田島信威

80の手習い [田島氏の随筆集]

私は3年前から介護施設でカラオケに合わせて歌を歌っている。3年前とは私の家内がなくなった時を指す。家内は施設のカラオケサークで皆を上手な歌で慰めていた。
 しかし、家内が急死したときは、私も悲しみにくれて何もできなかった。しかし、ある日のこと家内の跡を誰が継ぐのかと思ったとき、私がやらなければと気が付いた。家内は若い頃から歌のレッスンを受けた本格派で、その歌は上手だった。それに反して私はカラオケに行ったこともないし、コールアカデミーに入ったこともない。全くの素人だった。あとを継ぐといったって継げるわけがない。しかし家内の亡くなった後に行くようになったカラオケグループと共に歌うようになって、私もしっかり歌の練習をして、利用者の皆さんに良い歌を届けようと決意した。

カラオケマイクを買い込んでテレビにセットして毎日練習を始めた。

私の言っているデイケアセンターには、何人もの歌の上手な人がいて、私はその方々に本格的に指導をしてもらっている。発生の仕方からこぶしの使い方、曲想の表現方法に至るまで、徹底的に教わった。まだまだ3年目で上手になったわけではないが、本格的なレッスンを受け、カラオケマイクで練習に励んでいる。

私の努力を認めてくれて、私の歌をほめてくれる人がいた。私は家内に代わって歌をほめられたのが本当にうれしかった。これからも一生懸命練習して、本格的にやろうと決意した。

 前途遼遠だが、志を立てた以上、恐れず、ひるまず、全力を尽くして、歌の練習をしようと思う。それが亡くなった家内の思いにこたえる所以だと思っている。

 いずれにしても、何かをことを始めるのに、年齢は関係ない。どんなに年をとっていても、やる気でやれば、できることも多い。要は、いかに一生懸命やるかだ。多くの人が年を忘れて、おのが第2、第3の人生を強く、たくましく生きて行ってほしい。

 

 27.3.14 田島信威





大雪と過疎化現象 [田島氏の随筆集]

今年は、西日本帆がし日本の日本海側や北海道で大雪が降った。テレビで雪のために苦しむ人の姿を見るたびに、大変だなぁ、苦しいだろうなぁ、早く春がくればいいなぁと祈らざるを得なかった。

東京には雪は少ししか降らなかった。もし、大雪だったら、私たちの生活は大変な苦労を強いられて苦しんだことだろう。

北国の人々は、特に老齢化し方々は、このつらさに耐えかねて、故郷を離れる方々も出てくる。しかし、それは簡単んできることではない。永年育った土地・生活を支える仕事・そして親兄弟との協同生活・それらを捨てて、雪の降らない暖かい土地に移住するというが、それは本当に大変な事なのだ。しかし、あの大雪では病院・薬局・コンビニ・スーパーにも行けないとなったら、どうやって生きて行くのであろうか。これでは苦悩の末に故郷を離れる人々が出てくるのは避けられない。

 しかし、若い人はまだいい。老人はどうするのか。

中年の人も未知の都会で、どんな仕事をして生活をたてていくのか。しかし、大雪に閉じ込められては、生きるためには決断するしかなくなってしまう。

それらのことを思って、私には涙なしでは考えられない事ばかりだ。

昭和何年だったか、やはり日本は豪雪に見舞われたことがあった。その時、苦渋の決断の後、人々は一斉に故郷を離れていった。これは「過疎化現象」と呼ばれた。それ以降も同様な過疎化現象は起こって、雪国では若い人がいなくなってしまったという。政治も経済も全s力を尽くして戦わないこの過疎化現象は防げない。

大都会には人が集まり、雪国には人がいなくなる。北方四島の返還どころの問題ではない。村々の消滅現象が起こっているのだ。新幹線網・高速道路網の建設・整備もいいが、国も地方も、政治も経済も一体となって、この過疎化対策に取り組まなければ間に合わなくなる。雪国にも未来を作って行こう。国土を保全に行こう。私はそう思う。 

 

 29.2.22

田島信威 


日本人の特技 [田島氏の随筆集]

日本人の手先の器用さは、世界的なものがあるらしい。私どもはあまり意識していないが、外国人と共同作業するとき、それがはっきり顕在化する。私の大学の生物の先生が言っていたことだが、国際的実験作業の場で、器具を使って仕事をしたとき、手先の器用さを外国人から賞賛されたという。自分はそれまで日本人の中で器用だと言われたことはなかったし、特に器用だと思ったこともなかったが、外国人の学者の目にはとても微細な技術の持ち主と見えたらしい。

テレビ番組の中でも、匠の技として最近は良く紹介されているが 、伝統の技術には外国人の驚嘆するようなものがあるらしい。私どもは日本人特有の器用さを大いに誇りに思っていいようだ。

 その器用さは、ごはんを食べるときの箸の使い方や字を書くときの箸の使い方からくるものではないかと思われる。箸も筆も日本人はみんな小さいころから徹底的に教え込まれる。そしてみんな一通りの技術は身に付けている。だからとりたてて意識はしないが、そのようなトレーニングの場のない外国人の目からは、なんと器用な事だと思われるらしい。

 そしてそれは、事実として存在する。日本人はミリ単位の仕事を完璧にやってのける能力はみんな持っている。それが文化・技術・医療・科学などの発展にどれだけ貢献しているかは気が付かないだけなのだ。

 外国人は、みなそのレベルの高さを賞賛する。

NASAの宇宙ロケットも、日本のビス1本がなければ飛ばないといわれている。 

 普通の人にとってもそうなのだから、日本人の中でも名人芸と称えられる技術者は、世界に通用する優れものとして高く評価されている。それは「匠のわざ」といって特に大事にされている。

 私たちは、その器用さを誇りに思っていい。そのような器用な手先を持っていることを認識して、文化・技術・医療・工芸・その他の各分野に大活躍してくださるよう、私はこれからの若い人たちに特に期待しているのである。

 29.2.16 

 田島信威 


セルフネグレクト [田島氏の随筆集]

 朝のテレビで孤立老人の現状を放送していた。セルフネグレクトという状況に陥って、生きる力や希望を見失って、ただ漠然と生きているという人たちのことをいうらしい。そのような人が近年目立って増えているという。

 これらの人々に対して、現在は公的機関は積極的には手を出さず、そのまま放置しているようであるが、それがゴミ屋敷の原因となったり、失火の原因になったりするらしい。社会は自己の安全保持のために、このような老人に対して何らかの措置をとらねばならないという事のようだ。

 戦後、家族制度が崩壊し、老人の面倒を見なくなってきたため、孤立老人が増加しているという。老人は一人になってしまうと、精神的にうつ状態となり、生きる希望と意欲を失い、ただ過去の思い出にすがって死を待つだけとなってしまう。

 しかし、考えてもみよ!現在の社会体制を築き、子供たちを育てて、平和に生きる素地を作ってきたのは、これらの老人たちではなかったのか?

 ぼけてきたから、役に立たなくなったからと言って、老人を放置してもよいのか?それが人間のあるべき姿なのか?いやちがう。人間は、親から子へ、子から孫へとつながって、助け合ってきたからこそ、現在の繁栄と安定がるのだ。これまでの努力が老人たちにあったからこそ、現在の人々の生活があるのだ。

 老人への恩返しは、人間の崇高な義務だ!

 老人を独りぼっちにしてはならない。悲しい人生を送らせてはならない。今の幸せをかえりみて、そのために尽くしてきた功労者に対する感謝の気持ちを忘れてはならない。

 セルフネグレクトの心境に追い込まれないように、家族で、社会で、老人を見守っていかなければならない。

 「保育園落ちた!死ね!」というスローガンが広く共感を呼び、流行語となった。しかし、私に言わせれば、「老人施設に入れなかった!日本死ね!」というスローガンもあったっていい。一人で生きていけない老人を生み出すのは人間の恥だ!我らはそんな無慈悲な事ではなく、みんなが生きがいを持って生きてゆくことができるような社会を作り上げていかなければならない。そのための知恵と力を結集していこう。


29.2.14

田島信威

偉い人とは、どんな人か? [田島氏の随筆集]

恒例のデイケアセンターに出席した時のこと、リーダーの人が出席者一同に質問を投げかけた。

「皆さん、『偉い人』とはどんな人のことをいうと思いますか?」

これに対して出席者一同は次のように答えた。

1.大臣とか議員のように、選挙で選ばれた人

2.社長・重役のように、企業のトップになった人

3.大学教授や〇〇博士のように、学問的業績をあげた人

4.民間企業でも、公務員でも、高い地位に就いた人

5.ノーベル賞をはじめ 、各種の勲章をもらった人

リーダーから、「田島さんはどう思いますか」 と質問された。

私は次のように答えた。

「偉い人とは、他人の為に尽くす人のことをいうと思います。世間から認められようと、否とにかかわらず、苦しむ人、悩む人を助けようとする人が偉い人だと思います。」

私も色々と考えた。 

立派な作品を残した文学者、音楽家、芸術家、人類の幸せのために尽くした野口英世のような医学者やたくさんの科学者も私の心に浮かんだが、それらの人々もさることながら、日々の生活の中で、他社への愛から、苦しむ人、悩む人を助けようとして、日夜努力している人が偉い人なのではないか。

業績のある、なしにかかわらず、人のために尽くしている人はみんな「偉い人」なのだと思う。

皆さんの答えとは、基準の取り方が違うなと思いながらも、私は自信をもって答えた。 

私に言わせれば、「偉い人」というのは、金持ち・社長・大臣・高級官僚などではなく、その一生の間に、少しでも他人の幸せのために働いた人、優しい思いやりのある言葉をかけた人、心のきれいな愛の人、そのような人が偉い人なのだ、と私は思う。結果ではなく、生き方の問題なのだと私は思う。

29.1.31 

田島信威 

 


老人の涙 [田島氏の随筆集]

私も老人になった。

カラオケで歌っている時、その歌の歌詞に感動してしまって、つい涙が出てしまうことがある。

 若いころはにはそんなことはなかったから、老人になって涙もろくなったということか。

 涙が出るのはカラオケだけでない。 

テレビを見ている時も、大災害があって多数の人が亡くなったというような報道に接するときには、

つい涙ぐんでしまう。

大変だなぁ、つらいだろうな、悲しいだろうなという思いが胸に浮かんできて涙ぐんでしまう。

 若いころは、「私は男だ」と力んで悲しくとも涙は見せなかった。

しかし、年を取ってからは、だめだ。 

人前で涙を見せることは、恥ずかしい事だという意識はある。

しかし、だめだ。

自分も多くの悩み、苦しみ、悲しみを経験してきたので、

他人の気持ちがよく分かってしまって、

涙が出てくるようになった。

これは生理現象だから止めようがない。

弱くなったなぁ、と思う。しかし、抑えられないものを抑えなくとも仕方がないのではなかろうか。

人前で涙を流すことも老化現象のひとつだから、お許しいただくしかないことだ。

 平成29.1.20 

田島信威 


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