SSブログ
田島氏の随筆集 ブログトップ
前の10件 | 次の10件

年頭に際して [田島氏の随筆集]

日本人はことのほか年末年始を大切にする。私は、この一年一生懸命やってきたが、まだまだ後悔が残ることが多かった。あれもこれも失敗だらけだったともいえる。

しかし、そんな後悔はみんな投げ捨てて 、また新年からは、まっサラの一年を、はじめから全力投球で生きて行こうと思っている。

年頭に当たって思う事は、この一年何が待っていようとも、志を新たに、力一杯目標に向かって挑戦していくという事である。過去を忘れ、後ろは振り向かないで、また新しい目標に向かって敢然と立ち向かっていこう。人生の夢や希望は、その挑戦の中から生まれてくるものだ。

過去のことは忘れて、また新たな目標を立て、それに向かって突進していこう。年頭に当たりその覚悟を新たにした。 

年末に栄光あれ!

 

平成29年1月1日

田島信威 


ウソを教えるな [田島氏の随筆集]

私は昭和10年に生まれた。昭和16年4月に小学校(当時は「国民学校」といっていた)に入学した。そして昭和22年3月、戦後に卒業した。

敗戦までの4年間は、小学校で嘘ばかり教えられた。戦後になって「真相はこうだ」というラジオ番組があって、これらのウソを暴いてくれた。私の小学校で受けてきた教育は、算数や理科は別として、歴史・社会・国語などに関しては、ウソばかり教えられた。

よくもこうウソで固められた教育が行行とわれた今にして思う。官民一体となってありもしない歴史がでっちあげられ、学校の先生はまことしなやかに子供たちにウソを教え込んだのだ。厳しい統制があったとしてもあれくらい徹底して、ウソを教え込むことができたのはなぜだったのか。よくよく反省する必要がある。戦時体制下の国家主義にとって都合の悪いことは一切抹消され、一億総軍事体制下で敗戦の日まで、思想統一が強行されていたのだ。

昭和20年8月15日の敗戦の日までの間、一総総国民は、ウソとでっちあげの中で国家にすべてを捧げてきたのだ。当時の教育者はウソと知ってか知らずにか子供たちに教え込んできた。

ウソをつくことは悪い事だ。ウソを教え込むことは、もっと悪い事だ。人間の一番大切な道徳が無残に踏みにじまれてきた。

教育の場でウソが横行し 、真理が抹殺され、軍部独裁政が突進した。

この事実はどんなに強く叫んでも、叫び足りることはない 。

よく戦後は昭和20年8月15日から始まるというが、これも正しくはない。

このいたましいウソと愚行の歴史を正しく反省するためにも、戦後は昭和10年ころまで遡って正しく理解されなければならない。

諸外国に対する反省の為にも、いや日本自身の正しい再建のためにも、戦争中のあのウソで固めた時代のことを思い返して、再び過ちは繰り返さないという誓いを固めなければならない。もう二度とウソを信用することはやめよう。

   田島信威 28.12.17 

 


小池都知事の4か月間 [田島氏の随筆集]

小池百合子都知事が就任以降4か月たった。

私の第一印象は、よく闘っていると 思う。

オリンピック施設の問題、築地市場の移転問題、知事歳費の問題など、どれ一つをとっても、期待以上の行動力を示している。伝えられていないその他の問題についても、知事は全力を尽くして闘っていることであろう。

「伏魔殿」と言われていた東京都庁を見える化するというその一点だけでも、小池知事の業績は大きい。歴代の知事は何もせずに惨敗してきた。それに対して何物をも恐れず立ち向かっている知事の姿は、まことに崇高である。

私ははじめ、小池知事に何ほどのことができるのかと危ぶんでいた。鈴木元知事以来、多数の知事が浄化を成し得ずして敗退していった。その歴史を顧みて、小池知事も同じことになるだろうと思っていた。それが今や間違いであることがはっきりしてきた。私は自分の不明を恥じて謝罪するしかない。

小池知事は選挙公約に掲げたことを命がけでやっているのだ。こんなことは、今までなかったことだ。誰もが妥協して、うやむやにしてきたことを一つ一つ明るみに出して闘っている姿は、ありえないものをみる思いで、いつもテレビを見ている。

私は就任前、選挙公約を実現しようとしたら、摘陣からの集中砲火あびて、崩れ去ってしまうのではないかと心配していた。以前の知事がそうだったから、「小池さんだって」と思った。しかし4か月たって、それが見事に外れて、小池知事に関する私の予測はまったくはずれた。そして小池知事は平然と記者会見の場に来て、マスコミと対峙している。これまで長年の間、どの知事もができなかったことをやり遂げつつある。

この姿は、政治家として誠に偉大な事だ。

小池知事は選挙に出るに際して、「崖から飛び降りるような覚悟」といったが、本当にそうだったのだ。

そのすさまじい覚悟と意気込みがなければ、この4か月間の言動はあり得ない。久しぶりに偉大な政治家の姿に接する思いがする。

小池さん!まだはじまったばかりだ。これからがあなたの全力投球の場面を迎えるのだ。本当に崖から飛び降りる思いで対決してほしい。伏魔殿の敵と闘うのはこれからだ。同かジャンヌ・ダルクにはならないで勝ち抜いてください。都民の一人として心から応援致します。

    田島信威 28.12.6 


若者よ、強く生きよう! [田島氏の随筆集]

若者よ。君達は、強く、たくましく生きてほしい。

これが自分の道だと思ったら、好きなことを思い切ってやれ!そしてその中で、明るく、楽しい日々を築いてゆくのだ。

決して暗くなるな、迷いに沈むな!

大人たちは、親心から色々と注意したり、警告したりするだろう。それはありがたく頂いて、しかし私は自分の道を行くという心を強く持て。君の前には無限の道が広がっている。勇気をもって信念をもって、全力で生きて行こう。一歩一歩足を踏み固めて、生命の喜びを味わい、おのが好きな道を目指して歩もう。

どんな道でもいい。一本の道しかないわけではない。人々に尽くし、人々に幸せを与える道はたくさんある。どの道でもいいのだ。自分がこれだと思う道を発見し、全力をつくして進むのだ。それが人生なのだ。そのように歩むことによって人々は喜び、君を称える。

若者よ、希望を持って力強く生きよう。いつも満面の笑みを称えて、自分にも、人々にも幸せをもたらすようになってくれ!

平成28年11月4日

田島信威 


働き盛りの皆さんへ [田島氏の随筆集]

今まさに日本の部署で、中核になっている皆さん。日本を背負って一生懸命働いてくださり、本当にありがとうございます。

日夜、仕事に、研究に、育児に、日常生活のために励んで、多くの苦難と闘って問題を解決し続けていただき、私は心から感謝しております。

精神的にも、肉体的にも大変な事でしょう。あんまり根を つめないで、ときには心と身体を休めて休息してください。まさに今の日本を背負っているのは、あなた方なのです。

昭和20年の終戦時には東京をはじめ各都市は、全くの焼け野原で、ゼロからの出発でした。この70年間、日本をここまで復興させたのは、皆様方の先輩方でした。しかし、今は皆様方がそれを受け継いで日夜頑張っておられるのです。 おかげさまで、日本は世界から注目される国となってきました。生活は安定し、人々の生活は豊かになりました。日夜お仕事に専念されている皆様方の御藎力のたまものと私は深く感謝しております。

 私も体感した戦後日本の復興は、諸外国の見本となるような優れたものでした。しかし、日本はまだ悪しきところは正し、さらに良きものを求めて発展しつつあります。 

 このような実質的に豊かな国々を作り、支えてくださる皆様方に、私は心からの感謝を捧げるものです。苦しい事、悲しい事、つらいことなどたくさんあったことでしょうが、皆様方はそれらに耐えて今日を築いてきました。立派な事です。

 日々の生活において、治安を維持し、研究開発にいそしみ、教育・文化・医療・福祉などに尽くしている方々のことを思い、私は本当に良い国に生まれたものだと思います。これらもすべて皆様の御藎力のおかげです。

これからも、疲れたら休み、楽しみで心を癒して、どうか日本の向上発展のために尽くしてください。お願いします。

平成28年11月4日

田島信威 


老人の喜びと使命 [田島氏の随筆集]

老いてくると若いころのようには身体が動かない。頭も回転しない。物忘れがひどくなる。

そのような肉体の衰えは誰でもが感じるが、それはいかんともしがたい。

しかし、老人よ、このことで悲しむな!元気をもう一度出して新たに立ち上がろう 。

弱り、おとろえた身体や頭脳をもう一度鍛えなおして、明るく元気に立ち上がろう!若者のようなできなくとも、あなたには長い人生の経験があるではないか。すべてを味わって生きてきたのだ。今更泣き言を言うことはない。これまで長い間、人々の人生を助け、導き、励ましてきたあなた!あなたは大きな仕事をして今日に至ったのだ。人々に感謝される日々を送ってきたのだ。

身体や精神が衰えたことを嘆くことはない。これまでの人生において、沢山の仕事を成し遂げてきたのだ。だけどもう一度立ち上がって、残りの人生をしっかりと歩き続けようではないか!これができない、あれができないといって嘆くことはない。できないことは後継者の青年や中年の人たちに任せればいい。あなたはこれまで生きてきたように生きていけばいい。 

あなたは感謝の気持ちをもって、いつも笑顔で生きてきた。それを続ければいいのだ。あとはみんながあなたを支えてくれる。

老人よ、身体と精神の衰えを嘆くことはよそう。今日からまた、もう一度人生を切り開いて生きて行く覚悟を新たにしよう。できることはわずかでも、その経験を後を継ぐ人達に伝えて、力いっぱい生きて行く姿勢を示すことによって元気と迫力が伝わる。

若い人たちの力を精一杯発揮させるように気を配ればいいのだ。老人には老人のなすべき課題がある。立派に老人の務めを果たせばそれでいいのだ。若いころのようにできないといって嘆くことはないのだ。

老人には老人の使命がある 。若い人の力を称え、励まし、活力を賞賛しよう。自分はできなくとも、できる人を褒め称えればいいのだ。

老人には老人の使命がある。それをしっかり果たすことに全力を尽くせば、それでいいのだ!

 田島信威 28.11.4 


リオ・パラリンピック所感 [田島氏の随筆集]

2016年のパラリンピックは、ブラジルのリオデジャネイロで開催された。この時私は、パラリンピックをテレビを通して初めて見た。

 まず強く感じたのは、参加した障がい者アスリートの必死な姿であった。それだけの大きな障がいがありながら、あれだけの高いレベルに達するにはどんなに大きな努力と いがあったことだろうか、そのことを思って強い感銘を受けた。

私自身足腰が悪いために車いすでささやかに移動しているだけだが、選手たちはみな健常者並みのハイレベルの運動能力を発揮して競技をしていた。 そこには長年にわたって積み重ねられた膨大な練習と努力があったと推察される。

テレビを見ていて、私はある選手の言葉に胸を突かれた。その人は言った。「自分は障がい者スポーツが あったからこそ、生きる力と希望が湧いてきたこれがなかったら、私は障害を抱えた死んだ人間だった。」

そうかもしれない。何もなかったら障がい者がスポーツなどをするわけがない。そこにハイレベルの 競技会があったからこそ不自由な自分鞭打って必死の努力を積み重ねて、アスリートとしてオリンピックにも出たのだ。すべての競技に共通するのは、障がい者が自分の障がいを乗り越えて、競技に打ち込崇高な姿であった。

えらい、みんな本当にえらい。普通の競技会のように、1位,2位,3位などと順位をつけるのではなく、すべての競技者に敢闘賞を与えるというわけにはいかないものだろうか。

しかし、ある競技者は言った。「金メダルを目指して努力するところに意義がある。 みんな敢闘賞だというなら、誰も真剣にやらないだろう。」

この言葉に私は教えられた。より上を目指して努力することの意義を考えさせられた。

私自身車いすを使う障がい者だからそれらの競技のつらさはよくわかる。しかしアスリートとしてより高く、より強く、より早くという上を目指す姿勢には心からの敬意を払う気持ちになった。

 田島信威 28.9.25 


花森安治氏の功績 [田島氏の随筆集]

 現在進行中のNHKの朝ドラ「ととねえちゃん」には、現在のモデルがいる。それは「暮らしの手帖」を出版してきた出版社社長の大橋鎭子さんと、「暮らしの手帖」編集長の花森安治氏である。

 花森氏は戦後の物不足に苦しむ人々に、何とか幸せな生活ができるようにとの願いからあらゆる知恵を絞って、暮らしを豊かにする知識を普及する事に努めた。そのために「暮らしの手帖」を刊行して、知識の伝達に努めた。図入り・絵入りの解説で料理のレシピをを載せたり、衣服の作り方を紹介したり、あらゆる日常の生活の知識の啓蒙を行った。

 これを読んで、日常生活の心得を学んだ人は多かった。

 生活支援・向上に役立つことも多かったがそれにとどまらなかった。「暮らしの手帖」は文字で紹介するだけでなく、商品テストを行って家電製品をはじめあらゆるものの検査を行った。

「暮らしの手帖」は商品テストを厳格に行うために、企業広告などは一切掲載せず、消費者の立場に立って記事を書続けた。そのために、製造改造の気運が高まった。

 この出版物の目的は人々の生活を豊かにし、生活の芸術化・科学化を推進する事であった。戦後の荒廃した生活の中に明るい灯をともし人々に夢と希望を与え続けた。

 それと共に当時盛んになりつつあった日常生活の電化を正しく遂行させるためにも力を入れた。このため行われた商品テストの役割を私は見逃すことができない。

当時は日本の主要産業にのし上がった家電商品の商品テストは、すさまじいものがあった。

 例えば各社のトースターの検査のためには、食パンを4枚万以上焼いてその出来上がりをチェックした。

消費者に少しでも良いものを提供しようとの思いから徹底的なテストを繰り返した。それを誌上に載せて読者に提供した。

その結果、良き商品 への追及は日本の全産業に及び、その質の高さが世界的に認められるところとなって、日本グランドの海外での貿易拡大に大きな役割を果たすところとなった。

 対照的だったのは中国だ。中国には「暮らしの手帖」のようなものがなかったためか、見せかけだけの外観をした偽物が横行し、中国人自身でさえもメイドインチャイナのブランドを信用していない。それが近年の爆買いツアーの要因ともいわれているが、日本での「暮らしの手帖」が果たした役割の大きさに思い至るのである。

  日本における生活の向上と優秀な商品の開発に大きな役割を果たしたのが、「暮らしの手帖」だった。他にそのような類似の書籍があったかどうかを私は知らないが、日本企業の品質向上に強い影響を与えて日本企業の世界的信用を築き上げたのは花森氏の大きな功績であったと私は思う。


集団疎開のころの思い出 ② [田島氏の随筆集]

 昭和20年4月、まだ雪が残っていた。小岩からの生徒一同は、数件の旅館に分宿した。はじめはそれなりに楽しかった。しかしそのうちに段々と人間離れをした世界を味わうことになった。

 まず第一は、食生活の貧しさであった。春から夏にかけて米のない時期にさしかかったので、旅館で出される食事はひどいものとなった。お粥一杯が一食分の食事だった。おかずは大したものではなかった。

ところが、毎朝の朝礼の時に、胃の検査が行われた。一同並んで口を開け、舌を出して検査を受けた。「お前の舌は白くあれている。威を壊しているからお粥は1/2にしろ。」と先生は私に宣告した。

 普段でも食事は、小さなどんぶりに一杯のお粥だったのだ。水のようにうすいおかゆが1/2杯では生きて行けるわけがない。先生がどう考えて「1/2杯宣告」をしたのか、その心理を私は知りたいと思った。そんな粗食の中で胃をこわすわけがない。コメの配給が少なかったせいだとは思うが、先生もひどい事をしたものだと思う。

 しかし、戦争が終わって帰京したときに、両親は、やせ細った子供たちと対比して、丸々と太った先生の姿に唖然とした。いったい何があったのか。子供たちを食い物にして、自分たちばかりが豚のように太っていたのだ。私は深い人間不信に陥った。

 あまりのひもじさに、私は農家の納屋に入って干してあったうどんを盗んで食べたことがある。一回きりで二度とはしなかったが、空腹で目の回るような日々に追われての犯行だった。

 さらに上級生の暴力もひどかった。二人の6年生が下級生を徹底的に暴力支配した。理由は全く分からなかった。あるとすれば、単なる上級生の下級生支配だった。投げても投げても立ち上がらせた。ビンタもひどかった。 私も徹底的に投げられた。立ち上げれなくなった。なぜこんな罰を受けるのか、全く分からなかった。先生はただ黙ってみていた。 

 私共は8月15日の敗戦宣言によって救われた。ビアフラの子供たちのように痩せ弱った私たちは、あと数か月そんな状態が続けば餓死しただろう。「皇国絶対勝利」の掛け声のうちで飢餓に瀕していた子供たちがいたことはあまり知られていないだろう。

 私は救われた。昭和20年8月15日の玉音放送から半月で私共は東京に帰ってきた。9月の初めだった。

 上野から山の手線で秋葉原の駅で 乗り換えた時、丸の内、銀座の方面が良く見えた。ビルはいくつか残っていたが大半は瓦礫の山で廃墟のようだった。今になると高層ビルが林立している東京のど真ん中が、当時は瓦礫の山でまるで廃墟のようだったことを知る人は少ないだろう。

 私は半年間の学童集団疎開で、命からがら、また父母のもとに帰ってきた。「こんなに痩せて良く帰ってきたね」と涙をこぼした母の顔が忘れられない。

それからは戦後の食糧難の時代だったが、疎開中と違って、腹いっぱい食べられた。父母が苦心して集めてきた食糧で声明をつなぐことができたのだ。農家へ行っても、当時はお金では食糧を売ってはくれなかった。 着物や宝石といったものを持って、両親は食糧の交換をしてきた。満員列車に乗って食糧w買い出しに行く人々の姿を私はニュース映画で見た。コメなどは贅沢品で芋のような代用食ばかりだったが、少し前までの疎開中に比して腹いっぱいになったので満足だった。あの頃のことは皆が忘れても私には忘れられない体験だ。

日本は戦地だけでなく、本土でも餓死の瀬戸際にあったのだ。だから私は食物を粗末にしたことはない。今や暖衣飽食の時代となった。しかし、私はあの飢餓の時代のことは一時たりとも忘れたことはない。

 田島信威 28.7.24 


集団疎開のころの思い出 ① [田島氏の随筆集]

 私は昭和20年4月に、山形県余目に小学校一同で集団疎開した。3月10日の東京大空襲を受けて、当時住んでいた江戸川区小岩町から学童疎開をした。

 私は 東京都千代田区神田神保町に生まれた。初の疎開は昭和18年に、母の実家の近くにあった京王線八王子駅の近所のアパートへの縁故疎開であった。母と子供4人で暮らした。ここにいたのは半年くらいで、ほどなく江戸川区小岩町に一戸建てを買って引越した。父は弁護士をしていたので、小岩には住めなかった。

当時の小岩は畑が一面に広がっhている田園地帯で、私は生まれて初めての田園生活を満喫していた。夏にはトンボやセミを追いかけ、田 に入ってはザリガニを捕まえた。私が住んできた神田は、東京のど真ん中で、およ田畑のないコンクリート地帯だったから、何がなくとも子供本来の遊びに酔いしれて楽しい日々を過ごした。小学校3年のころで、友達と遊びまわって、学校に入っていたが、勉強などした記憶はなかった。

このころが一番楽しいころであった。それから戦局は日に日に悪化し、昭和20年に入るとよくB29の編隊が飛んでくるようになった。巨大なB29の大編隊で空一面がふさがられた光景は、今でも忘れることができない。

 昭和20年3月10日の東京大空襲による大火災を江戸川を隔てて私共も目にした。西の空が真っ赤に焼けた火に覆われ、人々が逃げまどって多数の人がなくなった。私の親戚の方々も亡くなったり、被災したりした。

 この大空襲があったために、江戸川区は急きょ学童疎開を決定し、私と弟は山形県の余目に行く事となった。都会育ちで農村地帯のことを一切知らなかった私は、小岩の延長線だと思って喜んで父母と分かれて、鳥海山のふもと、最上川沿いにある余目の町にやってきた。来た時には分からなかったが、ここで地獄の生活を味わうことになった。 


前の10件 | 次の10件 田島氏の随筆集 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。